曖昧な去就
なぜ、早くから東軍の誘いを受けていながら、戦闘が始まるまで東軍につくことを公にしなかったのか。
歴史再解釈小説『裏切りの戦略』
決められなかったのか。
史実は
物語で

01
「優柔不断な若者が、決戦当日まで迷い、家康の鉄砲に恐れて西軍を裏切った。」
この物語の要になっている問鉄砲は、同時代の史料に見えず、江戸期の家譜や軍記に現れる逸話である。その物語を一度脇に置いて、残っている出来事を起きた順にたどり直すと、決められない若者とは違う人物像が見えてくる。
本書の仮説
一つずつなら、どれも偶然で説明がつく。
だが、全部を偶然で説明しようとすると、偶然をいくつも重ねなければならない。
本書は、これらを、局面ごとに的確な判断を重ねた戦略の天才の意思決定として読み直す。その筋道を分析Iでゲーム理論の言葉を使って一つずつ説明し、分析IIでほかの説明と史料に照らして確かめる。本書は、秀秋の内心を証明するものではない。残された行動と、明示した仮定から、一つの意思決定のモデルを示す。そのモデルに立てば、秀秋は戦略の天才として読める。異論があれば、どの前提が崩れるかで確かめられるよう、仮定と根拠はすべて資料Cに挙げた。
本書の秀秋は、局面が変わるたびに、そのとき見えたものから的確な判断を重ねていく。前もって決めていたのは、東軍につくが早くは名乗らない、という大方針と、家康がどこまで来たら動くかという条件までである。そこから先は、取り返しのきかない手を条件がそろうまで打たず、相手の動きを見てから次の手を選んでいる。
02
本書の分析Iは、小早川秀秋を「優柔不断だった」「勇敢だった」といった人物評からは説明しない。誰が決め、何を知っていて、どの手を選べ、その手が相手の選べる手をどう変えたかに分けて、判断を一つずつ読み直す。
秀秋の判断を、次の三つの段階に分けて読む。
何を今決め、何をまだ決めずにおくか。──第一章・第二章・分析I-2〜I-4
自分が先に動くことで、相手の選べる手をどう変えるか。──第三章・第四章・分析I-5・I-6
相手が自分で答えを選ぶほかない場面を、いつ、どう作るか。──第五章・第六章・分析I-7〜I-9
03
起きた順に、秀秋自身の行動と、秀秋が置かれていた側の状況に分けて並べる。答えの末尾に、本書でそれを扱う章と節を示す。
まず、秀秋自身の行動である。
秀秋は、どちらにつくかを決めることと、それをいつ明かすかを、別の手として扱っている。東軍につくと名乗れば、その日から西軍のただ中で敵として扱われ、要地へ入ることもできなくなる。名乗らずにいるあいだは西軍の大名として動け、家康が西へ来なかったとしても西軍の大名のままでいられる。──第二章・分析I-4
本書の秀秋は、三成の命もないまま、西軍が重視していた松尾山へ、西軍の主力より先に入っている。松尾山は、大垣の西軍にとって兵糧も大坂との連絡もかかっている中山道を、横から見下ろす位置にある。そこへ8,000の兵が入ると、東軍につくか西軍につくかという先延ばしのきく政の問題が、誰が先に動けば誰が困るかという先延ばしのきかない戦場の問題に変わる。──第三章・分析I-5
一次史料から、開戦は午前十時ごろで、それとほぼ同時に小早川が寝返り、西軍はごく短い時間で崩れた、とする研究がある。本書もこの見方に近い読みを採り、秀秋は開戦と同時にまず先手を大谷へ向け、麓の四家が寝返って先手の後ろにつき、大谷へ向かうのを確かめてから全軍を掛けた、と読む。南宮山の毛利勢が下りてくる前に大谷を破るためである。遅らせていたのは決断ではなく、東軍につくと明かす時点のほうだった、と考えれば、この速さにも説明がつく。──第六章・資料C-5
次に、秀秋が置かれていた側の状況である。
家康が九月十四日に赤坂へ着いたことは合戦の二日後に書かれた書状で確かめられ、小早川が松尾山へ入ったのも同じ日とされる。江戸から来た側と近江で止まっていた側が、決戦場をはさむ位置へ同じ日にそろったことを、本書は偶然とは見ず、秀秋が自分で定めた条件(家康が清洲を発ったら動き始め、松尾山へ入る)で動いたと読む。本編は、この条件を家康方と申し合わせてあった形で描く。申し合わせを示す文書は知られていないので、これは本書の仮定である。しかも赤坂の岡山と松尾山のあいだには南宮山の尾根があって、互いの陣は見えない。このとき秀秋は家康へ使者を出さず、家康の側は清洲からの日数を数えて物見を出し、山に軍勢が入ったことだけを確かめている。──第三章・資料C-8
本書の三成は、後ろへ回る役を見込んでいた場所に、その役に数えていなかった小早川勢が入ったのを見て大垣を出る。小早川を敵と決めれば、その時点で8,000の兵が大谷の背後で正式な敵になるうえ、まだ旗を変えていない五十万石級の大名を謀反と認めて攻めさせることに、奉行の三成は一人では踏み切れなかった。そこで、決戦を求めて出るのではなく、大谷を孤立させないために主力を関ヶ原へ移す、と本書は読む。──第四章・分析I-6
本書は、三成が関ヶ原へ移ると決めた夜に、大谷へ、松尾山を正面に見る位置まで陣を寄せるよう指示した、と読む。小早川の前に置くなら、西軍の中で最も忠義に厚く崩れにくい大谷のほかにいなかったからである。南を大谷の方面で受け、自分は北の笹尾山で東軍の正面を受けるこの配置を、本書は、小早川に裏切られた場合まで織り込んだ三成の合理的な手として書いている。──第四章・第五章・分析I-6
四家は大谷直属の一軍ではなく、それぞれが独立した大名家だった。本書の秀秋は決戦の日の未明、四家へ別々に使者を出し、小早川勢は大谷へ向かって前へ出ると伝えて、どちらにつくかは各家で決めさせ、いつ動くかは言わず、返事も求めない。小早川勢が動き出したところで、四家はどれも同じ時に、8,000の兵の通り道に残るか、小早川について大谷を攻めるかを選ぶことになる。脇坂と小川が以前から東軍と通じていたとされることは寝返りやすかった背景にはなるが、その時を作ったのは小早川だった、と本書は読む。──第五章・第六章・分析I-7・I-8
05
物語の後ろに、判断を分解する分析編と、確かめるための材料をまとめた資料編を付けた。
本編
秀秋の行動を一つずつ偶然で片づけると、偶然が重なりすぎる。そこから秀秋は意図して動いたという仮説にたどり着き、それを崩す史実を探した経緯を記す。
伏見城攻めの大将に据えられた秀秋は、命じても諸家の兵が出そろわない朝を見て、大坂方に足りないのは兵ではなく、誰が何をいつ決めるかだと考える。
寄り合いの西軍と、最後に決めるのが家康一人の東軍とを比べて家康につくと決めるが、名乗らず、黒田長政の書状にも書面では返さない。
家康が清洲を発ったと聞いて高宮を発ち、柏原で待って、岐阜に入ったと聞いてから松尾山へ向かう。城にいた伊藤盛正の勢を戦わずに退かせて山へ入る。
松尾山に入った8,000の兵を敵とも決められないまま、三成は大谷を孤立させないために、夜のうちに主力を率いて大垣を出る。
両軍が盆地で向かい合い、決戦になると決まる。秀秋は大谷へ向かうと決め、あいだにいる四家へ別々に使者を出して、大谷へ向かって前へ出ることを伝え、どちらにつくかは各家に決めさせる。
開戦と同時に先手を大谷へ向け、四家が道を空けて向き直るのを見てから、全軍で大谷に掛かる。
関ヶ原のあと備前・美作へ移された秀秋は、二年後に岡山で没し、小早川家は続かなかった。
与えられた陣営の中で最善を尽くすのか、どの陣営に入るかを自分で選ぶのか。三成と秀秋の違いを、現代の仕事や組織に通じる問いとして捉え直す。
分析編
第一章から第六章までの判断を、選択肢を残す、相手の選択肢を狭める、相手に決断を迫る、の三つの段階に分け、ゲーム理論の言葉で整理する。
去就を明かさなかった理由、松尾山へ入ることを誰が決めたか、四家の寝返りがそろった理由、松尾山を取ったことが西軍の関ヶ原への移動に響いたか、の四つの争点について、本書の仮説とほかの説明を、史料の確度と、それぞれの説明に欠かせない前提で比べる。どれが最も無理なく説明できるかを検討したうえで、本書のモデルが成り立つなら秀秋は戦略の天才と評価できる、と結ぶ。
資料編
布陣図にある全部隊の本拠地・石高・兵力と、七月から九月十五日までの動き、道のりと距離を表にまとめ、布陣図の読み方を添える。
年表と、豊臣家の中での生い立ち、朝鮮への渡海、家老と家臣団、筑前と備前・美作の領国経営を、確かめられる範囲でまとめる。
本書が用いた材料を、同時代の史料から創作までの種類に分け、伏見城から南宮山まで論点ごとに、どこまでが史料でどこからが推論・仮定・創作かを示す。主要参考文献もここに挙げる。一件ごとにどの史料の何条・何号まで拠ったかは、このサイトの史料の細目にまとめた。

Kindle・ペーパーバック
『裏切りの戦略──再考・小早川秀秋』