『裏切りの戦略』資料編

史料の細目

本の資料C-2〜C-7 は、論点ごとの表にしてある。ここは、その一件ごとに、どの史料の何条・何号まで拠ったかを書いたものである。資料C-1 が史料の性格と各論点の前提を述べるときに拠った史料と、資料C-8 が本作の推論と分析のために置く仮定を挙げるときに触れる史料も、それぞれの節に置いた。資料C-9 は本文上の完全な創作を挙げる項なので、拠った史料はない。本全体の主要参考文献は資料C-10 にある。

資料C-1史料の扱い方

資料C-1 は、本作が使った材料を、同時代史料・後世の家譜と覚書・軍記・近現代の研究・通説・本作独自の推論・分析のために置く仮定・完全な創作の八つに分ける。あわせて、主要な史料と研究の性格、「東軍」「西軍」という呼称、各論点の前提を述べる。そこで拠った史料は次のとおりである。

資料C-2伏見城

伏見城の攻防は、同時代の史料が比較的よく残っていて、日を追って確かめられる。秀秋がいつ着き、どういう立場で加わったかは、記録によって違う。

資料C-3東軍との事前交渉

東軍の側から秀秋への働きかけがあったことは、八月二十八日付の連署書状で確かめられる。交渉に誰が関わったか、伏見のあと小早川勢がどう動いたかは研究の整理に拠り、秀秋がいつ東軍につくと決めたかを示す史料はない(本作の推論は資料C-8)。

資料C-4松尾山

家康が九月十三日に岐阜、十四日に赤坂にいたことは、書状で確かめられる。この二日の秀秋の居場所と、十四日に松尾山へ入った経緯は、研究者の推定と江戸期の系譜類に拠っていて、説が分かれる。

資料C-5大垣から関ヶ原への移動

三成が八月から大垣にいて東軍と赤坂で向き合っていたこと、西軍の主力が九月十四日の夜に大垣を出たこと、十五日の戦いで西軍が敗れたことは、同時代の書状で確かめられる。十四日の夜に大垣で何があったか、なぜ城を出たか、十五日の布陣と戦いの時刻は、後年の覚書と研究者の推定に拠り、説が分かれる。

資料C-6大谷・四家

大谷が討死したことと、小早川・脇坂・小川が家康方についたことは、合戦の二日後の書状で確かめられる。大谷がいつどこに陣を構えたか、四家と大谷がどういう関係だったか、四家が寝返るまでに何があったかは、研究の整理と後世の記録に拠るところが大きい。

資料C-7南宮山・吉川

吉川広家が東軍と通じていたことは、同時代の起請文で確かめられる。十五日に吉川が山麓を塞いで毛利勢を下ろさなかったという場面は、利害のある側が後から整えた記録に拠る。

資料C-8本作独自の推論と、分析のために置く仮定

資料C-8 は、史料にそのまま書かれていない本作の解釈を、本作の推論と、分析のために置く仮定とに分けて挙げる。各項が触れる史料の多くは資料C-2〜C-7 の各節にあるので、ここでは、資料C-8 でだけ触れる史料と、項ごとの参照先を挙げる。

本書について『裏切りの戦略』の紹介と試し読み