『裏切りの戦略』資料編
史料の細目
本の資料C-2〜C-7 は、論点ごとの表にしてある。ここは、その一件ごとに、どの史料の何条・何号まで拠ったかを書いたものである。資料C-1 が史料の性格と各論点の前提を述べるときに拠った史料と、資料C-8 が本作の推論と分析のために置く仮定を挙げるときに触れる史料も、それぞれの節に置いた。資料C-9 は本文上の完全な創作を挙げる項なので、拠った史料はない。本全体の主要参考文献は資料C-10 にある。
資料C-1史料の扱い方
資料C-1 は、本作が使った材料を、同時代史料・後世の家譜と覚書・軍記・近現代の研究・通説・本作独自の推論・分析のために置く仮定・完全な創作の八つに分ける。あわせて、主要な史料と研究の性格、「東軍」「西軍」という呼称、各論点の前提を述べる。そこで拠った史料は次のとおりである。
- 慶長五年九月十七日付の石川康通・彦坂元正連署状写(松平家乗宛)は、九州大学附属図書館付設記録資料館蔵「堀文書」五号で、原本ではなく写であり、九月二十六日付の本多正信の奥書が付く(翻刻は『新修福岡市史』資料編 中世1、一七七〜一七八頁。白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について」その3 の注一八三による)。合戦の二日後に書かれたもので、両名は佐和山方面にいて、戦況を後方へ伝える立場だった。本書はこれを「九月十七日付の連署状写」と呼び、家康の赤坂着は資料C-4、西軍の大垣退去と本戦の時刻は資料C-5、寝返った諸将と討死した大将は資料C-6 で扱う。
- 慶長五年九月十五日付の徳川家康書状(伊達政宗宛)は、合戦の当日に家康自身が書いたもので、戦場を「濃州山中」と書く(資料C-5)。
- 九月十四日の夜の大垣のことを伝える、島津忠豊の家臣・宮之原才兵衛の覚書(寛文三年の奥書)、島津家家臣の井上主膳の覚書(明暦三年の奥書)と神戸五兵衛の覚書(寛文四年の奥書)、東軍に属した水野勝成の後年の記述は、いずれも当事者の側が後年に書いた覚書である。同時代の文書ではないが、複数の家に別々に残っている点で、軍記とは扱いが異なる。宮之原才兵衛の覚書を「書上」と呼ぶ紹介もあるが、刊本(『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 記録所史料一』)の題は「宮之原才兵衛覚書」である。それぞれの所収と中身は資料C-5 にある。
- 『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』は江戸幕府が編んだ系譜類で、徳川方への貢献を書き立てる性格を持つ史料でもある。拠った家の項と巻・輯は、資料C-2〜資料C-6 の各項に書いた。
- 『関原軍記大成』は正徳三年(一七一三)に成立した軍記である。本作が触れる後世の記述のうち、西軍が示したという条件と、九月十四日付の平岡頼勝・稲葉正成宛の起請文(資料C-3)、三成の捕縛の経緯(資料A-5)、大谷の直属の600が小早川勢を押し返した逸話(資料C-6)はこれに拠る。
- 参謀本部『日本戦史 関原役』(明治二十六年)は、陸軍の参謀本部が関ヶ原の戦いについて編んだ戦史で、戦況の叙述と布陣図がある。神谷道一『関原合戦図志』(明治二十五年)とともに、いまの通説の配置のもとになったとされる(資料A-9・資料C-6)。附記の兵数の表がどういう数かは資料A-6 にある。同書の関係文書は、参謀本部 編『日本戦史 関原役 文書』(元真社、一九一一年)にまとめられている。
- 家康の八月の居所、三成の大垣在城、岐阜城の落城、赤坂での対陣、家康の岐阜と赤坂への着陣について資料C-3〜資料C-5 に挙げる書状の所在と日付は、白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について」(その1:『別府大学紀要』五三号、六五〜七七頁。その2:『別府大学大学院紀要』一四号、三七〜五六頁。その3:別府大学史学研究会『史学論叢』四二号、一〜三三頁。いずれも二〇一二年)の整理による。
- 「五大老」「五奉行」という呼称そのものを史料から検討し直した研究に、堀越祐一「豊臣「五大老」・「五奉行」についての再検討──その呼称に関して」(『日本歴史』六五九号、一九〜三七頁、二〇〇三年)がある。堀越はのちに「知行充行状にみる豊臣「五大老」の性格」(『國學院大學紀要』四八号、三四一〜三六一頁、二〇一〇年。のち『豊臣政権の権力構造』吉川弘文館、二〇一六年所収)で、知行の充行については決定権が実質的に「五奉行」の側にあったとしている。本書はこの論点を、谷徹也「書評と紹介 堀越祐一著『豊臣政権の権力構造』」(『国史学』二二三号、二二八〜二三三頁、二〇一七年)に拠って引く(資料A-6、資料C-8)。
- 「東軍」「西軍」は関ヶ原当時の呼称ではなく、同時代史料では「輝元方」「奉行方」のように呼ばれる。白峰旬は、当時の実態に近い区分として「石田三成・毛利輝元連合軍」と「徳川家康主導軍」を用いる。東軍・西軍という呼び方の軍記での初見を元禄十一年成立の『石田軍記』とするのは、白峰旬「関ヶ原の戦いのとらえ方について」(別府大学史学研究会『史学論叢』四三号、二〇一三年)五一頁である。
- 秀吉の死後に五大老・五奉行が政務を担い、前田利家の死後に均衡が崩れて家康が政務を主導するようになっていった、という整理は、東京大学史料編纂所 編『史料綜覧』巻十三(一九五四年)の綱文と、参謀本部『日本戦史 関原役』による。家康が伏見城へ移ったこと(慶長四年閏三月十三日)は『言経卿記』同日条で確かめられる。
- 家康の関東での石高を二百四十二万石とするのは、白峰旬「関ヶ原の戦いにおける諸将の軍役人数(兵力数)についての予察的考察」(『国史纂集』二七号、四三〜七七頁、二〇二五年)が、辞典の豊臣大名表に拠って挙げる数である。同時代の石高帳ではたどれない。
- 毛利輝元が七月十七日以降、大坂城西の丸にいたことは、白峰旬による徳川家康の軍事行動の整理(その3)による。
資料C-2伏見城
伏見城の攻防は、同時代の史料が比較的よく残っていて、日を追って確かめられる。秀秋がいつ着き、どういう立場で加わったかは、記録によって違う。
- 鳥居元忠らの籠城の開始は七月十五日で、「舜旧記」同日条による。守兵の数は、慶長五年八月十日付の石田三成書状(佐竹義宣宛)に、城兵1,800に大坂城西の丸から移った500を加えて2,300とある。十九日から本格的な戦闘になったこと、二十二日に宇喜多勢が加わったことは『言経卿記』の各日条、攻め手が小山を築いて大筒と石火矢を据え、堀を埋めてもなお落ちなかったことは『吉川家文書』六二六号文書による。八月一日の昼に落城したことは『義演准后日記』同日条、鳥居元忠が鉄砲頭の鈴木孫三郎(重朝)に討たれたことは同年八月五日付の石田三成書状(真田昌幸ほか宛)、内藤家長父子・松平家忠ら800人が討ち死にしたことは同年八月一日付の増田長盛・長束正家連署状(真田昌幸宛)にある。近隣の郷民が小栗栖の山から見物していたという記事も『義演准后日記』七月二十一日条にある。落城後に奉行衆から感状が回ったことは、八月朔日付の増田長盛書状と、八月二日付の長束正家・増田長盛・前田玄以連署状にあり、どちらも鍋島信濃守・毛利豊前守宛で、本丸へ乗り込んだ働きを賞している。
- 小早川秀秋は慶長五年七月、西軍として伏見城攻めに加わった。『義演准后日記』七月二十三日条に、前日に秀秋が攻撃衆として到着した旨があると紹介されており、本作が到着を七月二十二日としているのはこれによる。なお光成準治は、秀秋の参戦を七月二十一日ごろからとしている。
- 伏見城が落ちずにいたあいだ、家康が東国にあって諸将と書状で話を進めていたことは、白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について」(その1)の書状の整理で確かめられる。
- 『勝茂公譜考補』(佐賀県近世史料 第一編第二巻)は、七月下旬に伏見へ向かった軍について「大将は金吾(小早川)秀秋」とし、島津義弘・忠恒、龍造寺高房、鍋島勝茂、毛利吉政らを従う者として挙げ、士卒23,000余騎とする。落城の場面でも「小早川秀秋の手勢より火矢を放ち、伏見城天守を焼き崩した」と書いている。これは江戸期に鍋島家が編んだ家譜で、秀秋の下に付いた家の記録でもあるので、割り引いて読む必要がある。攻撃の開始を七月二十五日夜とするなど、日付では同時代の記録と食い違う。ただし元忠を討った者も800余の討死も同時代の記録と同じように書いており、後世の家譜だからといって中身が空だというわけではない。一方で、宇喜多秀家を総大将とする整理もある。 本作は『勝茂公譜考補』に拠って、秀秋を大将として書いている。宇喜多勢は七月二十二日に着いており、秀秋が率いたのが同じ日に加わった別の大軍だったと読めば、二つは論理の上では両立する。ただし、そう読める直接の史料はない。秀秋を大将に据えたのが誰なのかは、本作は書いていない。
- 秀秋は東軍につくつもりで伏見城へ入ろうとして断られ、やむなく攻撃側へ回った、という話がある。島津義弘についても同じ話がある。前者は『寛政重修諸家譜』、後者は「島津家譜」に拠り、どちらも江戸期に編まれた家譜で、同時代の史料では確かめられない。本作は採っていない。
- 秀秋がいつ筑前を発って上方へ来たのか、何のために来たのかは分かっていない。慶長四年二月五日の筑前・筑後復領から、慶長五年七月の伏見城攻めまで、間が空いている。本作も、伏見の陣にいるところから始めて、そこへ来た経緯は書いていない。
- 伏見城を囲んだ西軍の総勢について、本作は数字を書いていない。たどれる数字がないためである。第一章が使う23,000余騎は『勝茂公譜考補』にさかのぼる数で、七月下旬に秀秋の下へ加わった軍のものであり、攻め手の総勢ではない。
- 鳥居元忠が何を狙って籠城したのかを書いた同時代の史料は見つからない。上に挙げた記録は、日付と兵数と攻防の経過と討死を書くだけで、元忠や家康の意図には触れていない。籠城中の元忠自身の発給文書も確かめられなかった。家康が会津へ発つ前に伏見城を元忠らへ託した経緯と、三成の反心に備えるという理由づけは『寛政重修諸家譜』(文化九年=1812年成立)にあり、家康と元忠が別れの盃を交わしたという話は『三河物語』(元和八年=1622年、大久保忠教)にある。前者は江戸幕府が編んだ系譜、後者は攻防の二十二年後に、その場にいなかった旗本が書いた覚書である。城内の甲賀衆が調略に応じて放火したという話も、同時代の史料ではたどれない。元忠の籠城を家康のための時間稼ぎとする評価は今日まで受け継がれているが、その狙いの部分は、これら後世の編纂物までしかさかのぼらない。
- 伏見に十日以上を費やしたために美濃・伊勢方面への西軍の展開が遅れた、という見方がある。史料で示せるのは順序までである。落城は八月一日(『義演准后日記』同日条)、三成が真田昌幸・信幸・信繁へ次の段取りを書き送るのは八月五日(『真田家文書』五四号。阿部哲人「慶長五年の戦局における上杉景勝」に翻刻)、三成が美濃に、長束正家が伊勢に着陣したことが確かめられるのは八月十日付の三成書状(真田昌幸・信繁宛。『信濃史料』第十八巻四五四頁)である。西軍が伊勢・美濃へ展開するのは、伏見が落ちたあとになる。同じ期間に家康が東国で諸将と書状のやり取りを進めていたことは、上に挙げた白峰旬の整理で確かめられる。ただし、伏見が早く落ちていれば西軍がもっと早く動けたかどうかは、起きなかったことなので史料からは出てこない。
- 第一章で秀秋が数える「十三日」は、攻撃が本格的になった七月十九日から落城の八月一日までの日数で、籠城の始まった七月十五日から数えれば十七日になる。秀秋が着いたのは二十二日なので、これは秀秋が現地で見た日数ではなく、攻め手全体が費やした日数である。この「十三日」を秀秋がどう受け取ったかを示す史料はない(本作の推論は資料C-8)。
資料C-3東軍との事前交渉
東軍の側から秀秋への働きかけがあったことは、八月二十八日付の連署書状で確かめられる。交渉に誰が関わったか、伏見のあと小早川勢がどう動いたかは研究の整理に拠り、秀秋がいつ東軍につくと決めたかを示す史料はない(本作の推論は資料C-8)。
- 家康は八月五日に小山から江戸へ戻り、九月一日に江戸を発つまで、八月のあいだは江戸を動かなかった。江戸へ戻ったことは八月七日付の伊達政宗宛徳川家康書状、発ったことは九月朔日付の福島正則宛徳川家康書状による(中村孝也『徳川家康文書の研究』中巻、五六一〜五六二頁・六五五頁)。
- 小早川秀秋宛の慶長五年八月二十八日付 黒田長政・浅野幸長連署書状が伝わる。出雲桑原文書(桑原羊次郎氏の旧蔵)にあるもので、密書に使う小切紙に書かれている。文面は、北政所とのつながりを持ち出して「此度御忠節肝要候」と忠節を求め、家康が二、三日のうちに着くとも書く。「東軍へ味方せよ」という語句はないが、東軍につくよう促した書状と読める。 本作は、家康自身の書状ではなく、北政所の縁を持ち出した黒田・浅野の連署で持ちかけたこと自体を、誘いの形として読んでいる。秀秋がこの書状を受け取ったこと、応じたことは、書状からは直接言えない。
- この書状は「先書ニ雖申入候」と、これより前にも申し入れていたことを書く。その前の書状は伝わらず、中身も、秀秋が返事をしたかも分からない。中身を確かめられる働きかけとしては、八月二十八日付の書状が最も早い。参謀本部『日本戦史 関原役』は、伏見城が落ちたあとに秀秋の側から黒田長政へ書を送ったとしている。 黒田長政は元和九年の遺言覚(黒田家文書)に、毛利家と小早川家への調略が自分の手柄だと書き残している。小早川秀秋は合戦以前から東軍に内通していたとされ、平岡頼勝は稲葉正成とともに黒田長政との交渉にあたり、秀秋を東軍へ導いた人物とされる。平岡が黒田家と姻戚だったことを交渉の縁とするのは『日本戦史 関原役』で、同書は典拠も、誰と誰の縁かも書いていない。
- 伏見城が落ちたあとの小早川勢の動向は、史料の上で不鮮明で、整理が分かれる。黒田基樹『小早川秀秋』(戎光祥出版「シリーズ・実像に迫る」〇〇五、二〇一七年)六一〜六四頁は、伊勢方面の攻略軍に加わらず京都や近江に在陣して一人だけ戦線を離れていた、と整理する。ほかに、伊勢方面へ進んだとする記録もあれば、北陸方面の守りに回ったとする説、近江に長く留まったとする整理もある。本作は黒田の整理を採り、伏見のときのように西軍の主力と行動し続けたわけではない、という形で書いている。ただし、そう決められるほど材料がそろっているわけではなく、本人がどういう意図でそうしたかを示す史料もない。 『寛政重修諸家譜』の小早川秀秋の項(巻第六百十八)と稲葉正成の項(國民圖書版 第四輯、巻第六百八)は、秀秋が三成から伊勢の津城へ向かわされた途中、関の地蔵から引き返して近江の高宮に陣を置いたとする(稲葉正成の項「三成秀秋をして伊勢國津の城におもむかしむといへども…關地藏より引かへし、近江國高宮に陣す」)。江戸期の家譜で、伊勢方面の軍に加わらなかったとする黒田の整理と同じ向きの記事である。
- 九月三日に小田原で、秀秋の使者が家康の家臣の永井直勝のもとへ来たとき、家康は「せかれの申事實儀にてはなく候、取あひ候事無用」と言って取り合わなかった。八日に白須賀で来た使者は、家康の前へは出ず「よき御挨拶」を受けた。『慶長年中卜斎記』中之巻(『史籍集覧』第二十六冊)による。家康に随行した板坂卜斎の後年の記録で、同時代の史料では確かめられない。使者が何を伝えたかは書かれていない。
- 『寛政重修諸家譜』の黒田長政の項(國民圖書版 第三輯、巻第四百二十五)は、長政が家臣を秀秋の陣所へ遣わし、平岡頼勝の弟資重が人質として長政のもとへ、長政の家臣吉田宮内が人質として秀秋のもとへ送られたとする。人質を交わした日付は書かない。九月十四日に家康が赤坂に着いたのち、家康の下知で使者を遣わし、「必裏切せむことを約す」ともする。江戸期の家譜で、平岡と黒田の縁は「所縁あるにより」とだけ書く。
- 九月十四日付で本多忠勝・井伊直政が平岡頼勝・稲葉正成に宛てた起請文が伝わる。「對秀秋、聊以內府御如在有間敷事」「御兩人、別而被對內府御忠節之上者、以來內府御如在ニ被存間敷候事」「御忠節相究候は、於上方兩國之墨附、秀秋に取候而可進候事」の三か条で、忠節が定まったときの恩賞を条件の形で約している。『関原軍記大成』に載る写しで、原本は確認されていない(参謀本部 編『日本戦史 関原役 文書』第百八号、七九頁)。同じ日付で同じ二人が吉川広家に宛てた起請文(資料C-7)とは別の文書である。
- 九月二十四日付の徳川家康書状(筑前中納言宛)は「今度關ケ原御忠節之儀誠感悅之至候、從最前之筋無相違儀、別而祝着存候」と書く。九月十七日付で家康が稲葉正成に宛てた書状も「今度中納言殿忠節之儀、其方才覺故と祝着候」と、秀秋の忠節を稲葉の才覚によるとする。いずれも「古文書集」に載る写しで伝わる(参謀本部 編『日本戦史 関原役 文書』第百十一号、八二頁)。「最前之筋」が、いつからの、どのような申し合わせを指すかは書かれていない。
- 慶長五年の情報のやりとりで、同時代の文書で確かめられるのは、物見や忍びの働きではなく、取次を介した書状である。上の八月二十八日付の書状は密書に使う小切紙に書かれており、紙の選び方と、東軍につけと名指しせず北政所の縁から忠節を求める文面そのものが、当時の作法を示している。 九月十四日付では、本多忠勝・井伊直政と、福島正則・黒田長政が、それぞれ吉川広家あてに起請文を出している(いずれも『毛利家文書』。資料C-7)。小早川が松尾山へ入ったその日に、東軍の側は南宮山の毛利勢の指揮官と起請文を取り交わしていたことになる。
- 街道に人馬を常備して継ぎ送る伝馬制が敷かれるのは、東海道が慶長六年(一六〇一)、中山道が慶長七年(一六〇二)からである。関ヶ原の時点では、この制度はまだ整っていない。戦国大名や豊臣政権の伝馬の仕組みはそれ以前からあったが、この時この道筋で馬を継ぎ替えられたかは史料から分からない。本作では、早馬は自分の馬で行くか、自家の陣で替えるものとして書いている。 岐阜の落城、大垣に集まった顔ぶれ、赤坂に出た東軍の先手は、数日で東西の陣に行き渡ったもので、出どころを問う種類のものではない。 家康が清洲を発った日、岐阜に入った日は、その日に動くかどうかを決めるための報せで、遅れれば使えない。継ぎ替えを当てにできない以上、遠くの新しい動きは自分で人を出して取るほかない。
- 小早川勢は九月十四日まで西軍の一手として扱われている。
- 関ヶ原で松尾山を偵察したことを書いた同時代の文書は見あたらない。 参謀本部『日本戦史 関原役』一九二頁は、松尾山への使者に竹中重門の家臣を案内に付けたとする。地元の者を道案内に使う形だが、これは後世の記録で、本作はその場面を採らない。
- 西軍の側から、秀頼が成人するまでの関白職と上方二か国を与えるという条件が示された、という話がある。これを載せるのは『関原軍記大成』で、そこに載る条件の文書は、原本が確認されず、文体にも不審な点があることから偽文書の可能性が指摘されている。本作はこの条件を採っていない。
資料C-4松尾山
家康が九月十三日に岐阜、十四日に赤坂にいたことは、書状で確かめられる。この二日の秀秋の居場所と、十四日に松尾山へ入った経緯は、研究者の推定と江戸期の系譜類に拠っていて、説が分かれる。
家康は九月十三日に岐阜に着陣し、十四日に赤坂へ出た。九月十三日付の土方雄久宛徳川家康書状(中村孝也『徳川家康文書の研究』中巻、六九〇頁)、九月十四日付の丹羽長重宛西尾吉次・西尾利氏連署状(同、六八九頁。『岐阜県史』史料編 古代・中世四、二〇四〜二〇五頁)による。九月十七日付の石川康通・彦坂元正連署状写(資料C-1)にも「去十四日赤坂ニ被成御着」とある。
松尾山城は、石田三成の命を受けた伊藤盛正が普請した、西美濃最大級の山城とされる(中井均「関ケ原合戦と城郭」)。この城の普請は毛利輝元を入れることまで想定していた、とする見方があり、城郭研究の側から中井均が出したものである。中井均「関ケ原合戦と城郭」(岐阜関ケ原古戦場記念館 編『関ケ原研究会寄稿集』、二〇二四年、一六〜一八頁)は、下の項の九月十二日付の三成書状の「江濃之境目松尾之城、何れの御番所にも中国衆入可被置、御分別尤にて候」を引き、松尾山城を中国衆、すなわち毛利輝元を入れ置くための城とする。
九月十三日前後に秀秋がどこにいたかは、高宮、柏原と説が分かれている。柏原の成菩提院には秀秋の禁制札が残り(令和六年に滋賀県指定文化財)、合戦の前後にここへ宿営したと伝えられるが、禁制札の日付は「九月日」で、日付までは特定できない。九月十二日から十四日にかけての行程は通説によるもので、一次史料からの再検討により、十四日以前の所在には異説がある。 高橋陽介「九月十四日、西軍から小早川秀秋に対する交渉」(岐阜関ケ原古戦場記念館 編・発行『関ケ原研究会寄稿集2025』、一二〜一三頁、二〇二五年)は、十四日に大垣にいたのは大谷で、秀秋は柏原から山中へ移っていたとする。『戸田左門覚書』(『地域史研究』一一六号の翻刻、一七二頁)は、秀秋が十三日まで大津城を攻め、十四日の申の刻に関ヶ原に着いたとする。後年の覚書で、本作の行程とは合わないので、この部分は採っていない。 本作は柏原で止まっていたものとして書いている(高宮と柏原での段取りが本作の推論であることは資料C-8)。
小早川秀秋が九月十四日に松尾山城の伊藤盛正を退かせて入城し、山に布陣したとするのが通説である。近年の整理としては光成準治『小早川隆景・秀秋』(ミネルヴァ書房、二〇一九年)二五五頁がこれを採る。ただし同時代の文書は確認できず、伊藤を退かせた場面は『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』といった江戸期の系譜類に拠るので(資料C-1)、入城の日付や経緯の細部までそのまま受け取れるわけではない。同じ『寛政重修諸家譜』でも、稲葉正成の項は松尾山の新城に入ったとし(下の項)、小早川秀秋の項は「十四日松尾山の麓に備を立」とする。白峰旬は、開戦のときには秀秋が山上から、松尾山の前の小高い岡(通説の布陣図で脇坂らが布陣したとされる位置)へ移って布陣した可能性が高いとする。 本作は通説の山頂入城を採っている。三成の命によらずに入ったとするのは本作の推論で(資料C-8)、光成準治は、秀秋が西軍の戦略として入った蓋然性が高いとする。
入城を命じた同時代の文書は、東西どちらの側からも伝わらない。『寛政重修諸家譜』の稲葉正成の項(國民圖書版 第四輯、巻第六百八)は「賊徒相はかりて秀秋が陣をせめんとす。九月十四日正成諸士と相議し兵を率て美濃國におもむき松尾山の新城にいり、その城主伊藤長門守某を追拂ふ」と、西軍が秀秋の陣を攻めようと謀ったので、正成が諸士と議して松尾山の新城に入り、城主を追い払ったとする。この記事の初出は『寛永諸家系図伝』である。中井均「関ケ原合戦と城郭」(上の項、一七頁)は、城主を追い払っての入城を「不法占拠であり、西軍の作戦ではない」とし、秀秋軍が最初から東軍として入城したことを示唆するとする。同稿は、秀秋の松尾山布陣がそれまで大谷吉継の采配の一環と考えられていたとも書く。 本作は、三成の命によらない、自分たちの判断による入城として書いている(本作の推論は資料C-8)。
『寛政重修諸家譜』の奥平貞治の項(國民圖書版 第三輯、巻第五百四十六)は「金吾中納言秀秋かねて内應せるにより、十四日其狀をうかゞはむがため、仰によりて秀秋が松尾山の陣にいたり」と、家康の命で奥平が松尾山の陣へ行き、伴五兵衛重盛とともにそのまま陣にとどまったとする。黒田長政の項は「秀秋ははじめより松尾山にあり」とする。いずれも江戸期の家譜である。 本作の第三章の家康は、松尾山へ使者を出さない(資料C-3)。
九月十二日付・増田長盛宛とされる石田三成書状は、松尾の城などに中国衆を入れるという増田長盛の案を、三成が「尤にて候」と認める文面で、「金吾」「筑前中納言」の名は出ない。ただしこの書状は原本が確認されず、『古今消息集』に載る後世の写しで伝わるため(参謀本部 編『日本戦史 関原役 文書』第百四号、七四〜七八頁)、白峰旬らから偽文書の可能性が指摘されている。同じ書状は「佐和山口より被出候衆の中、大人數もち、敵へ申談らるゝ子細候」と、大軍を持つ味方の中に敵と通じる者がいると書くが、名は挙げない。 中国衆は毛利方の中国地方の勢を指す語で、南宮山の毛利秀元・吉川広家もこれに当たり、別の軍勢ではない。 本作は、この書状を三成の当初の作戦の骨格には使っていない。ここには、偽文書の可能性のある史料として挙げるにとどめる。
家康が松尾山へ鉄砲を撃ちかけて秀秋の決断を促したという「問鉄砲」は、同時代の史料に見えない。江戸期の家譜や軍記に現れる話で(早いものは寛文十二年写の『井伊家慶長記』)、白峰旬「フィクションとしての「問鉄砲」」(パート1・パート2、二〇一三年)は後世の創作だとしている。一方、笠谷和比古『論争 関ヶ原合戦』(新潮選書、二〇二二年)は、山頂への一斉射撃は後世の肥大化としつつ、『備前老人物語』が伝える、誤射を装った射撃はあったとする。ただし、その根拠(『備前老人物語』『黒田家譜』『戸田左門覚書』)も江戸期の編纂物・覚書である。 「昼まで動かず、問鉄砲を受けて突然寝返った」という従来の像には、資料C-5 の本戦の時刻の項に挙げた研究から異論が出ている。本作はこの話を採っていない。
資料C-5大垣から関ヶ原への移動
三成が八月から大垣にいて東軍と赤坂で向き合っていたこと、西軍の主力が九月十四日の夜に大垣を出たこと、十五日の戦いで西軍が敗れたことは、同時代の書状で確かめられる。十四日の夜に大垣で何があったか、なぜ城を出たか、十五日の布陣と戦いの時刻は、後年の覚書と研究者の推定に拠り、説が分かれる。
- 石田三成は八月十日には大垣城にいた。同日付の真田昌幸・信繁宛石田三成書状による(『愛知県史』資料編13 織豊3、九三八号)。八月二十七日には三成・小西行長・島津義弘・宇喜多秀家が連署で林村(いまの大垣市林町)に禁制を出しており、この時点で四人が大垣にいたと見られる(『岐阜県史』史料編 古代・中世一、五六二頁)。
- 岐阜城は八月二十三日に落ちた。八月二十八日付の浅野長政宛徳川家康書状に、二十三日に乗っ取ったという注進があったので出陣する、とある(『愛知県史』資料編13 織豊3、一〇〇一号)。
- 岐阜城が落ちたあと、東軍は赤坂まで進み、大垣と向き合った。八月二十六日付の吉川広家宛増田長盛書状(『大日本古文書 吉川家文書之一』七二五号)、八月二十七日付の山内一豊書状(『山内家史料 第一代一豊公紀』三七一頁)による。後者は、大垣城に宇喜多・小西・三成が立て籠もっているので付城を拵えて囲んでいる、と書いている。
- 西軍の主力が大垣を出た時刻は、九月十七日付の石川康通・彦坂元正連署状写(資料C-1)によれば、十四日の夜五ツ時分、つまり午後八時ごろである。大垣城には守備の兵が残されたとされる(参謀本部『日本戦史 関原役』)。 西軍が大垣を出たのを十四日の午後七時ごろ、東軍が動き出したのを十五日の午前零時ごろとする整理もある(小和田哲男「関ケ原研究最前線二〇二五」、岐阜関ケ原古戦場記念館 編・発行『関ケ原研究会寄稿集2025』、四〜五頁、二〇二五年)。ただしこれらの時刻は史料を突き合わせて推し量ったもので、絶対の時刻ではない。本作は、西軍の出発を連署状写の夜五ツに合わせ、東軍が盆地へ入ったのは日付が変わったあととする整理に拠って書いている。
- 九月十四日の夜、小早川が家康方へついたという情報が大垣の西軍へ入ったことは、宮之原才兵衛の覚書、井上主膳の覚書、水野勝成の後年の記述が伝えている(資料C-1)。宮之原才兵衛の覚書(寛文三年の奥書。『鹿児島県史料 旧記雑録拾遺 記録所史料一』六八頁)は「九月十四日に大柿江相知れ申候」と書き、井上主膳の覚書(明暦三年の奥書。『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』一四〇七号)は、談合の最中にその注進があったと書く。九月十四日に西軍の側が秀秋を不審に思い、接触ないし身柄の確保を試みたとする後世の記録は複数ある。井上主膳の覚書は、秀秋を大垣へ呼び入れて人質に取ろうとしたが、秀秋は「風気」、つまり病を理由に出てこなかったと、後に聞いた話として書く。『戸田左門覚書』(『地域史研究』一一六号の翻刻、一七二頁)は、大谷吉継が秀秋を連れて来ようと自ら陣へ赴いたが、病を理由に会えなかったとし(笠谷和比古もこれを挙げる)、『寛政重修諸家譜』の稲葉正成の項(國民圖書版 第四輯、巻第六百八)は、それより前に高宮で大谷が招き、平塚為広・戸田重政を遣わして面会を求めたが、病と称して会わなかったとする。方法は一致せず、同時代の史料による確認はない。本作はこれらに共通する部分だけを採り、本文では、秀秋が松尾山へ入ったという報告を受けた三成の側の呼び出しとして書いている。
- 西軍が大垣を出た理由については見方が分かれる。東軍が大垣を素通りして西へ進むという報への対応とする説のほか、『慶長年中卜斎記』系統の記述を重視する研究では、小早川の謀反の風聞を受けた動きだった可能性が論じられている。素通りの報については、島津家臣の『神戸五兵衛関ケ原之覚書』(寛文四年の奥書。『鹿児島県史料 旧記雑録後編三』一四〇三号)が、家康が大垣には押さえを置いて京都へ通るという報が大垣へ聞こえたので、関ヶ原へ出て一戦すると談合で決めたとする。同じ島津家臣の覚書の中に謀反の風聞と素通りの報の両方が現れ、二つは互いに排除し合わない。風聞については、『慶長年中卜斎記』中之巻(『史籍集覧』第二十六冊)が、宇喜多・小西・石田が大垣を出たのは「筑前中納言殿謀叛と風聞候仕置いたすべきとて」だったと書く。 小和田哲男「関ケ原研究最前線二〇二五」(上の項)は、三成が当初、大垣城を軸にして、寄せてきた東軍を毛利秀元・吉川広家・小早川秀秋の大軍に背後から攻めさせる後詰の決戦を考えていたと整理し、小早川の不穏な動きと南宮山の毛利・吉川の動きへの不安から、三成自身の判断で関ヶ原へ移った可能性が高いとする。同稿は、この状況を家康による小早川への調略と吉川への不戦工作の成果として評価している。本作は、小早川の謀反の風聞(松尾山の占拠)も城を出る判断に寄与したとし(寄与の大きさは確定できない。分析II-4)、小早川が松尾山へ入ったと聞いた三成が、自分の判断で大垣を出て関ヶ原へ移る流れで書いている。本作が採らないのは、東軍の進軍への対応だけで城を出たとする筋のほうで、当初の作戦に小早川を数える点は第四章がそのとおりに書いている。 一方、水野伍貴『関ヶ原合戦を復元する』(二〇二三年)は、西軍の関ヶ原転進を小早川の寝返りへの対処とする説を、章を立てて批判的に検討している。この点は決着していない。
- 慶長五年九月十五日付の徳川家康書状(伊達政宗宛)に「今十五日午刻、於濃州山中及一戦」とあり、宇喜多・島津・小西・石田の勢を破って佐和山へ向かった旨が続く。合戦の当日に、家康自身が戦場を「濃州山中」と書いている。九月十七日付の連署状写は、家康が十五日の巳の刻(午前十時ごろ)に関ヶ原へ出陣して一戦に及んだ、という趣旨を書いている。白峰旬「慶長5年6月~同年9月における徳川家康の軍事行動について」(その2)の整理は、この巳の刻を、家康が赤坂から移っていた桃配山の陣所から前線へ本陣を移したことを指すと読んでいる。十五日の朝に家康が赤坂から桃配山へ出て陣所を置いたとするのも、同じ整理(その2、五六頁)による。本戦の開始は九月十五日の午前八時ごろとされることが多く、正確な開始と終了の時刻を史料から定めるのは難しい。決着までを二時間ほどと見る研究もある。 九月十七日付の連署状写は、巳の刻に戦いが始まり、戦いを交えたころ(「とりむすひ候刻」)に小早川・脇坂・小川父子が家康方につき、敵が敗軍したと記す。これをもとに、開戦のころに小早川が寝返り、西軍はごく短時間で崩れたとする研究がある(白峰旬)。この研究は、合戦が半日を超える長い攻防だったという像を採らない。戦場と戦いの段階をどう区切るかにも説がある。 本作は、連署状写を、開戦のころに小早川が転じたものと読むこの研究に寄せて書いている。開戦とともにまず先手を大谷へ向け、四家が寝返ったのを確かめてから全軍を入れた、という順は本作の推論である(資料C-8)。 これに対し水野伍貴は、小早川が開戦と同時に寝返り、合戦は短時間で終わったとする説を否定している(「関ヶ原合戦に関する新説の検討」『十六世紀史論叢』一八号、二〇二三年。『関ヶ原合戦を復元する』でも章を立てて検討する)。本格的な戦闘の前に大谷が小早川に壊滅させられ、その後に主力同士の戦闘があったとする説(合戦二段階説)も論じられている。これらに立てば、小早川が早い段階で大谷を攻めたという本作の読みは残りうるが、開戦とほぼ同時に転じ、短時間で崩れたという時間の順は変わる。この点も決着していない。
- 十五日の朝に霧が深く、なかなか晴れなかったとするのは、『慶長年中卜斎記』中之巻、『当代記』(江戸初期成立。国書刊行会 編『史籍雑纂』第二、一九一一年)と参謀本部『日本戦史 関原役』で、いずれも後世の記録である。
資料C-6大谷・四家
大谷が討死したことと、小早川・脇坂・小川が家康方についたことは、合戦の二日後の書状で確かめられる。大谷がいつどこに陣を構えたか、四家と大谷がどういう関係だったか、四家が寝返るまでに何があったかは、研究の整理と後世の記録に拠るところが大きい。
- 九月十七日付の石川康通・彦坂元正連署状写(資料C-1)には、小早川秀秋・脇坂安治・小川祐忠父子が家康方についたため西軍が速やかに敗れた、という趣旨と、討死した大将級として大谷刑部少輔の名が記されている。小早川秀秋は九月十五日の本戦で家康方につき、西軍の敗北に直結する動きをした。この日どこに陣していたかについては、資料C-4にある。麓の四家のうち、この連署状写に名指しされているのは脇坂と小川父子までで、赤座直保と朽木元綱の名は出てこない。二人の動きは後世の記録に頼る部分が大きく、裏づけは弱い。 白峰旬『新解釈 関ヶ原合戦の真実』(二〇一四年)は、この二人がそもそも関ヶ原に参戦していなかったのではないか、と指摘している。四家がはじめから一つのまとまりとして動いたわけではなく、すでに東軍と話をつけていた者と、その場で流れに乗った者とが混じっていた可能性がある(本作の推論。どの家がどちらだったかは史料から決められない)。四家の配置については下の項にある。
- 大谷吉継はこの年の夏、北国口を担当していた。越前・加賀方面で諸将への調略を行い、前田利長の南下を牽制したとされる。参謀本部『日本戦史 関原役』は、三成の急使を受けた大谷が越前を発ち、九月三日に美濃へ入ったとする。 夏のあいだ大谷が受け持っていた「北国口」は、八月五日付の石田三成「備えの人数書」に「北国口の兵三万一〇〇の大将」とあるように、北陸方面の戦線区分の呼び名である。関ヶ原の街道の名ではない。人数書は同時代の文書だが、その内訳、つまりどの大名が誰の下に置かれていたのかまでは確かめられていない。
- 大谷が九月の初めに関ヶ原の西端の藤川台に布陣した、という整理は、外岡慎一郎『大谷吉継』(戎光祥出版、二〇一六年)七八頁による。いま広く見られる「九月初旬・藤川台」という書き方は、ほぼここから来ている。
- これとは別に、九月三日から山中に陣を構えていた、という伝承がある。ただし、この三日という日付は同時代の史料に見えず、典拠を挙げない参謀本部『日本戦史 関原役』(上の項)にさかのぼるだけで、外岡の整理も「九月初旬」までで、日付を特定してはいない。伝承を含む説明である。
- 大谷吉継が、九月の初めに築いた山中村の陣から、東の藤川台(口北野)へ布陣し直した、という説明もある。『関ヶ原合戦誌』などに拠る後世の整理である。いま「大谷吉継陣跡」として案内される場所は、移る前の山中村の陣の側にあたる。陣替えの時期は、『関原合戦図志』が十五日の朝とし、『関原軍記大成』は十四日の夜にはもう藤川台を大谷の陣所とする。本作はこの陣替えの説明を採り、三成が関ヶ原へ移ると決めた九月十四日の夜に、三成の指示で大谷が陣を寄せたものとして書いている。この指示は本作の推論である(資料C-8)。
- 十月七日付の池田照政書状(本多正純宛)は、大谷が九月十四日に関ヶ原方面へ着いたとする。合戦から約三週間後の文書で、大谷が九月の初めから山中方面にいたとする上の整理とは合わない。十四日に大垣にいたのは大谷だとする高橋陽介の見方は、資料C-4にある。本作は、大谷が九月の初めから山中方面にいたとする整理を採っている。
- 当日の戦場に山中が含まれることは、家康自身の書状で確かめられる(資料C-5)。九月三日という日付が伝承にとどまることとは、別である。
- 白峰旬は、藤堂新七郎家に伝わる記録をもとに、大谷の南宮山下布陣説を提起している(「大谷吉継の南宮山下布陣説について」、『国史纂集』二七号、二〇二五年)。「新七郎家乗」「新七郎家来浜一右衛門覚書」「藤堂姓諸家等家譜集・藤堂新七郎家」に、南宮山ないし南宮山下で大谷方と藤堂方が交戦したことを示す記述がある。従来の布陣を見直す材料にはなる。ただし、それが大谷吉継本人の所在を示すのか、大谷勢の一部との交戦を示すのかは、なお検討を要する。軍記や家記では、誰それを攻めたという書き方が、その武将本人ではなくその持場や手勢を指すことがあるからである。
- 本作は南宮山下説を採らず、通説の配置(藤川台)で書いている。
- 大谷勢の正面で戦ったのが藤堂高虎・京極高知だという整理は、『藤堂家覚書』『高山公実録』といった藤堂家側の記録と、参謀本部『日本戦史 関原役』に拠るもので、同時代の史料までは確かめられない。白峰旬の見立ては、論考の年によって変わっている。二〇一六年の論考では、島津家家臣の覚書群から大谷勢が西軍の主力より東へ突出して集中攻撃を受けたと再構成しており、そこに藤堂・京極の名は出てこない。二〇一八年の論考では、同じ藤堂家史料から藤堂・京極という整理を支持し、二〇二五年には上の南宮山下布陣説を出している。 本作は藤堂・京極の整理を採り、藤堂と京極が盆地の側から大谷に当たったものとして書いている。
- 脇坂安治・朽木元綱・小川祐忠・赤座直保の四家が、大谷の山中入りのころには同じ方面にいた、とするのが通説の配置である。 本作はこれを採り、四家が現地にいるものとして全編を書いている。四家が大谷と松尾山の間に立つ位置になったのは小早川の入山のあとだ、という本作の見方は資料C-8にある。
- 四家を「大谷吉継の与力」と呼ぶ整理は、外岡慎一郎『大谷吉継』七八頁にさかのぼる。いま広く見られる記述は、ほぼここから来ている。同じ箇所の、大谷勢と与力の四家を足し合わせる数え方は資料A-6にある。参謀本部『日本戦史 関原役』は四家を独立した一将として陣地の順に挙げるだけで、与力という語を使っていない。赤座については、慶長四年十月朔日付の連署状から堀尾吉晴の与力であることが確かめられる。大谷への与力づけを示す同時代の文書は見えない。本作の本文では、大谷と同じ方面にいた四つの独立した家として書き、地の文では与力と呼ばない。台詞では、赤座の陣の者が自分たちを大谷の与力と言う(第五章)。制度として与力づけがあったとは言えないが、関係そのものが否定されるわけでもない。
- 脇坂家は合戦以前から家康方と連絡していた。慶長五年八月朔日付の徳川家康書状(脇坂家文書ほか)がそれで、仲介に立っているのは山岡道阿弥である。藤堂高虎ではない。宛先が安治か次男安元かについては説が分かれ、安元宛とする翻刻では、家康は父子で相談するよう求めている。安治もこの連絡を共有していたと見るのが自然だが、安治本人が書状を受け取ったことは言えない。一方、脇坂と小川が藤堂高虎を通じて東軍と通じていた、という経路は、藤田達生『藤堂高虎論』(塙書房、二〇一八年)が「秘覚集」を引いて述べるもので、江戸期の『高山公実録』『慶長軍記』にも同趣旨がある。藤堂と脇坂・小川との事前の申し合わせを具体的に記すのは藤堂家側の覚書で、その内容の真偽には留保があり、いつ何を約束したかまでは確定していない。小川が事前に東軍と通じていたことは、これらの家記系の記述にしか見えない。脇坂の事前の接触は同時代の文書で確かめられるが、藤堂を通じた経路は確かめられておらず、小川については内通そのものが後世の記録に拠る。本作は本文でこの経路に触れず、分析I-8・分析II-3 で扱い、資料A-5 では脇坂・小川の行と、藤堂の行(後世の藤堂家の記録)に挙げている。 朽木についても、『寛政重修諸家譜』の朽木元綱の項(巻第四百十五)が、元綱は関ヶ原で大谷の手に加わり、脇坂・小川とともに藤堂高虎を通じて内通し、秀秋とともに大谷の陣を撃ったとする。江戸期の家譜で、同時代の史料では確かめられない。赤座については、内通を伝える記録がない。
- 『寛政重修諸家譜』の小早川秀秋の項(國民圖書版 第四輯、巻第六百十八)は、十四日に「脇坂中務少輔安治、朽木河内守元綱、小川左馬助忠有等も、秀秋と志をおなじうしてともに陣す」とし、戦後、秀秋が村越直吉を案内に家康の陣営へ参ったとき、三家が従ったとする。江戸期の家譜で、赤座の名はない。同時代の史料では確かめられない。
- 大谷吉継が直属の600を手元に残し、その600が山を下りてきた小早川勢を二度、三度と押し返したという描写は、『関原軍記大成』などの軍記に由来するもので、同時代の史料で裏づけられるものではない。大谷勢が小早川の攻撃に対して一定の抵抗をしたこと自体はありうるが、押し返した回数や兵数まで確かめられるわけではない。本作は第六章でこの描写を採っている。鉄砲と槍の順や、台地の縁での押し合いのような細部は創作である(資料C-9)。
- 大谷吉継の軍勢は、複数の方向から攻撃を受けて壊滅したとされる。どの方向から誰が攻めたかは参謀本部『日本戦史 関原役』の叙述によるもので、同時代の文書には書かれていない。 小早川の寝返りを契機に西軍が次々と敗走したとされる。小早川の寝返りと大谷勢の敗北とのつながりは、在京の同時代の日記「舜旧記」の九月十五日条が、大谷刑部少輔の討死を書いたすぐあとに、それを小早川秀秋の反逆によると書いている。京都にいた梵舜が伝え聞いたことを書いたもので、戦場にいた者の記録ではない。
- 四家へ実際に何が伝えられたのか、誰が使者に立ったのか、どの家がどの順で腹を決めたのかを示す史料は残っていない。本作の描き方は、創作として補ったものである(本文の前夜の場面の創作は資料C-9)。
- 寝返った者の戦後の扱いは、一様ではない。脇坂は本領を安堵され、朽木も本領を安堵された(『寛政重修諸家譜』は九千五百九十石余とする)。赤座は改易。小川も改易である。小川も事前に東軍と誼を通じていたとされる(上の項)。小川の場合は三成との関係や日ごろの評判が問われたと、『改正三河後風土記』などの後世の記録は伝える。
資料C-7南宮山・吉川
吉川広家が東軍と通じていたことは、同時代の起請文で確かめられる。十五日に吉川が山麓を塞いで毛利勢を下ろさなかったという場面は、利害のある側が後から整えた記録に拠る。
- 吉川広家が東軍と通じていたことは、慶長五年九月十四日付の本多忠勝・井伊直政連署起請文、および同日付の福島正則・黒田長政連署起請文で確かめられる(いずれも『毛利家文書』)。南宮山への着陣は九月十二日付の吉川広家書状(祖式長好宛)による。
- 九月十四日から十五日に南宮山にいたのは、毛利秀元・吉川広家・長宗我部盛親・安国寺恵瓊の軍とされる(参謀本部『日本戦史 関原役』の布陣図)。吉川は上の項の書状で着陣が確かめられるが、ほかの三家の在陣は同時代の文書では確かめられない。この軍が十五日に山を下りて東軍の後ろへ出ることはなかった、とするのは参謀本部『日本戦史 関原役』の叙述で、同時代の文書でそれを直接述べるものは見つかっていない。
- 南宮山で吉川広家が山麓に陣取り、毛利秀元らが下りられなかった、という場面は、吉川家側の記録と江戸期の軍記に拠る。吉川の東軍内通そのものは起請文で確かめられる(上の項)が、秀元を押し留めたという場面は別である。山本洋「『陰徳太平記』の成立事情と吉川家の家格宣伝活動」(『山口県地方史研究』九三号、二〇〇五年)は、岩国藩が『陰徳太平記』『関原軍記大成』へ広家を正当化する記事を載せさせる働きかけをしていたことを論じており、光成準治は「吉川家譜」所収の書状群に当時使われない語があるとして偽文書の可能性を指摘している。 利害のある側が後から整えた話である可能性を含む。
資料C-8本作独自の推論と、分析のために置く仮定
資料C-8 は、史料にそのまま書かれていない本作の解釈を、本作の推論と、分析のために置く仮定とに分けて挙げる。各項が触れる史料の多くは資料C-2〜C-7 の各節にあるので、ここでは、資料C-8 でだけ触れる史料と、項ごとの参照先を挙げる。
- 秀秋が前もって決めていたのは大方針(東軍につく、早期には公表しない、兵の用途が定まるまではどこにも兵を出さない)までで、行動を開始する条件(家康が清洲を発った時点で行動を開始し、松尾山へ入る)も秀秋自身が定めた、とする項。本編はこの条件を家康方へ伝えて申し合わせていたと描き、資料C-8 はこの申し合わせを分析のために置く仮定とする。分析はそれを前提にしない。家康が美濃に入ったと聞いてから松尾山へ入ることは、清洲を発ったという報せを受けてから秀秋が決めたもので、家康方へは伝えていない(第三章、分析I-10)。申し合わせを記した文書は伝わらない。
- 申し合わせの深さを四つの段階(東軍の側から働きかけがあった/秀秋の側が何らかの形で応じた/東軍につくことまで合意していた/入る場所と行動開始の時期まで申し合わせていた)に分けたときの材料は、八月二十八日付の黒田長政・浅野幸長連署書状、九月三日・八日に秀秋の使者が来たとする『慶長年中卜斎記』、黒田長政と人質を交わしたとする『寛政重修諸家譜』の黒田長政の項、九月十四日付の本多忠勝・井伊直政の平岡・稲葉宛起請文(『関原軍記大成』に載る写し)、九月二十四日付の家康書状(「古文書集」に載る写し)で、いずれも所在と字句は資料C-3 に挙げた。八月二十八日付の書状で確かめられるのは一つ目の段階までで、ほかの四つは二つ目以上を示唆するが、三つ目と四つ目のどちらかに決める材料にはならない。
- 高橋陽介『シン・関ヶ原』(講談社現代新書、二〇二五年)は、秀秋が合戦の前から家康方として動いていたとする解釈を示す。使う史料の評価と論証の方法には、呉座勇一・水野伍貴らの批判がある(二〇二六年)。本作はこの解釈を採らない。
- 九月十四日の夜に大垣を出ると決めた三成が、家康の赤坂着をすでに知っていた、とする仮定。家康の十四日の赤坂着は書状で確かめられるが(資料C-4)、三成がそれをいつ知ったかを記した同時代の史料はない。『慶長年中卜斎記』中之巻(『史籍集覧』第二十六冊)は、大垣から三度人を出して家康の着到を確かめたのち西軍が城を出たと書くが、家康に随行した板坂卜斎の後年の記録である。
- 秀秋が、家康が尾張の清洲を発ったことを合図に高宮を発ち、家康本人が岐阜に入ったことを合図に松尾山へ入った、とする推論。家康が九月十三日に岐阜、十四日に赤坂にいたことは書状で確かめられるが(資料C-4)、家康の行程と秀秋の移動を結ぶ因果を書いた史料はない。家康が十二日の明け方に清洲を発ったとするのも本作の推論である。『慶長年中卜斎記』中之巻(我自刊我書本、第九丁ほか)は「十一日清須」「十二日御逗留」「十三日清須より…岐阜…へ着御」と、十一日に清洲に着き、十二日も清洲にとどまり、十三日に清洲から岐阜へ移ったと書き、『田中興廃記』(文政五年=一八二二年)も同じとする。
- 麓の四家へ、十五日の未明に、小早川勢が大谷へ向かって前進することと、ついて大谷へ向かうか大谷の側に残るかはそれぞれの家で決めてくれということが伝えられた、とする仮定。四家へ何かが伝えられたことを示す史料はなく、使者と口上は創作である(資料C-9。資料C-6 の、四家へ何が伝えられたかの項)。分析II-3 は、四家の行動開始のモデルにこの伝達を必須としない。
- このほかの項が触れる史料は、伏見城の攻防と家康の書状による調整(資料C-2)、八月二十八日付の書状と返書の有無(資料C-3)、松尾山への入城と、開戦時には前の岡へ移っていたとする説(資料C-4)、西軍の側が秀秋を大垣へ呼ぼうとした記録と本戦の時刻(資料C-5)、八月五日付の人数書・赤座の与力づけ・大谷の陣替え(資料C-6)、南宮山の諸勢(資料C-7)、奉行の権限(上の資料C-1 の、五大老・五奉行の項)の各節にある。