『裏切りの戦略』
変更履歴
本書の電子版は、発売後も記述の訂正を続けている。訂正した箇所は、すべてこのページに掲載する。
- 版は作品の世代を表し、現在は初版である。版は、章の構成や分析のモデルを変更するような大きな改訂を行う場合にのみ改める。
- バージョンは同じ版の中での訂正を表し、電子版の奥付に「電子版 v1.0.1」のように記載している。紙の本には版のみを記載し、バージョンは記載しない。
本書は、史料で確認できる事柄と、本作の推論・創作とを区別して記述することを方針としている。本書自身の訂正にも同じ基準を適用し、解釈を変更した場合はその旨を明記する。
v1.0.2 — 2026-10-12
電子版と紙の本(ペーパーバック)の両方に適用した。解釈と分析の結論に変更はない。
第一章で、家康を弾劾する条書を出した奉行の記載に誤りがあったため、これを訂正した。このほか、史料や本書の他の箇所と食い違っていた記述を改め、文の乱れと語の重複を修正した。
本編
第一章 落ちない城 史実の誤りを訂正した。条書(七月十七日付の「内府ちかひの条々」)は三奉行の連署状とともに出されたものであり、三成は三奉行に含まれない。
- 前:その留守のあいだに、石田三成をはじめとする奉行衆は家康を弾劾する条書を出している。
後:その留守のあいだに、長束正家・増田長盛・前田玄以の三奉行は家康を弾劾する条書を出している。
第三章 松尾山へ入る(章末の解説) 分析I-5 と字句を統一した(意味の変更なし)。
- 前:家康に対しては、東軍の側で行動する意思を示す、行動による意思表示になった(分析I-5)。
後:家康に対しては、東軍の側で行動するという、言葉よりも確かな意思表示になった(分析I-5)。
第四章 西軍が城を出る 宇喜多勢が南天満山に入った時点の記述を、前後の場面と整合させた。
- 前:北天満山には小西行長、南天満山には宇喜多秀家が入った。
後:北天満山には小西行長が入り、南天満山には宇喜多秀家が入りはじめていた。 - 前:「並び終えましたな」と平岡が言った。
後:「並んできましたな」と平岡が言った。
第五章 守りごと取り込む 藤川台の位置の記述を訂正した(藤下の村の中、藤川の西)。
- 前:築いたばかりの山中村の陣から少し東の、藤下の村の西にある台地、藤川台である。
後:築いたばかりの山中村の陣から少し東の、藤下の村の、藤川の西にある台地、藤川台である。
同章では、指示語の指す対象と語の係り方も明確にした(意味の変更なし)。
- 前:それが、いまは目の前で向かい合っている。
後:両軍が、いまは目の前で向かい合っている。 - 前:秀秋は、夜のうちに戦う軍勢を麓へ下ろしておくよう命じた。
後:秀秋は、戦う軍勢を夜のうちに麓へ下ろしておくよう命じた。
第六章 兵力を、一点に集める 西軍の軍勢がいなくなった宇喜多勢の側面が、南側であることを明記した。
- 前:大谷の方面が崩れたいま、宇喜多勢の横には、もう西軍の軍勢がいない。
後:大谷の方面が崩れたいま、宇喜多勢の南の横には、もう西軍の軍勢がいない。
同章の文の乱れと表記も修正した(意味の変更なし)。
- 前:前へ出れば分かると言った、四家がどちらを向くかが見えただけだったからである。
後:前へ出れば分かると言ったとおり、四家がどちらを向くかが見えただけだったからである。 - 前:「家康殿は、この戦争を始める前から、勝ちやすい情勢を作っていた。」
後:「家康殿は、この戦争を始める前から、勝ちやすい情勢を作っていた」 - 前(章末の解説):第五章の四家は、小早川の行動しだいで選択を変えうる相手だったので、予定を伝えて判断を迫った。
後(章末の解説):第五章の四家は、小早川の行動しだいで選択を変えうる相手だったので、秀秋は予定を伝えて判断を迫った。
終章 二年後 文の乱れを修正した(意味の変更なし)。
- 前:関ヶ原のあと、秀秋は備前・美作へ移され、石高は五十一万石前後の岡山城主となった。
後:関ヶ原のあと、秀秋は備前・美作へ移され、石高五十一万石前後の岡山城主となった。
分析編
分析I-2 西軍を一枚岩の軍として評価しない(第一章・第二章) 南宮山の軍勢についての記述を、史料から言える範囲に改めた。南宮山の軍勢は東軍を背後から攻撃しなかったが、撤退の際には山を下りている。
- 前:南宮山の兵が山を下りなかったことは資料C-7 による。
後:南宮山の兵が山を下りて東軍を後ろから攻めなかったことは資料C-7 による。
分析I-3 東と西を、誰が決め、誰が所領を配るかで比べる 語の重複を除いた(意味の変更なし)。本文の一文と表の二つの欄で、「複数の諸家」を「諸家」に改めた。
- 前:秀秋から見れば、家康との約束は履行の主体が明確で、複数の諸家の合意に左右されにくい。
後:秀秋から見れば、家康との約束は履行の主体が明確で、諸家の合意に左右されにくい。
分析I-5 いつ松尾山へ入るか 同じ意思表示を述べる二つの文の字句を統一した(意味の変更なし)。
- 前:これは家康に対して、東軍の側で行動する意思を示す、言葉よりも確かな意思表示になった。
後:これは家康に対して、東軍の側で行動するという、言葉よりも確かな意思表示になった。 - 前:伝えていなかったとしても、松尾山へ入ったことは、家康に対して東軍の側で行動する意思を示す意思表示になり、分析はこの点で(四)を必要としない。
後:伝えていなかったとしても、松尾山へ入ったことは、家康に対して東軍の側で行動するという意思表示になり、分析はこの点で(四)を必要としない。
分析I-6 松尾山を取られた三成は、どう応じるか 比較の対象としていない対応の例に挙げていた「一部の軍勢だけを動かす」を削除した。同じ節の表で比較しているのは、兵の一部を割いて小早川を攻める対応と、毛利勢を先に関ヶ原へ出す対応である。あわせて、後半の文に主語を補った(意味の変更なし)。
- 前:比較したのは表の五つの対応で、一部の軍勢だけを動かす、後退する、小早川ともう一度交渉する、といった中間の対応は比較していない。
後:比較したのは表の五つの対応で、後退する、小早川ともう一度交渉する、といったほかの対応は比較していない。 - 前:秀秋が作り出したのは、三成のどの対応にも代償が伴う状況であり、三成がどの対応を選ぶかまでは予測していない。
後:秀秋が作り出したのは、三成のどの対応にも代償が伴う状況であり、秀秋は三成がどの対応を選ぶかまでは予測していない。
分析I-7 四家を、兵の数ではなく四つの家として扱う 四家に予定を告げたのも、去就を委ねる言葉を伝えたのも使者であるため、使役の形に統一した(意味の変更なし)。また、「期限も切らず」という記述は、分析I-8・I-10 が小早川勢の攻撃開始を四家の判断の期限としていることと矛盾するように読めた。期限を示さなかったのは使者の口上においてであるため、その旨を明記した。
- 前:秀秋は四家それぞれに使者を出し、小早川勢は大谷へ向かって前進すると告げたうえで、
後:秀秋は四家それぞれに使者を出し、小早川勢は大谷へ向かって前進すると告げさせたうえで、 - 前:同行も返事も求めず、期限も切らず、大谷の側に残った場合の処遇にも触れていない。
後:同行も返事も求めず、口上では期限も切らず、大谷の側に残った場合の処遇にも触れていない。
分析I-9 攻撃開始によって何が変わるか 文の乱れを修正した(意味の変更なし)。
- 前:この局面は、新しい意思決定ではない。
後:この局面に、新しい意思決定はない。
分析I-10 三つの段階を通して 表の欄で、日時が「知った」に係るように改めた。家康が岐阜に入ったのは十三日の夕方であり、十四日の朝はその報せが届いた時刻である。
- 前:九月十二日の夕方に家康が清洲を発ったと知り、十四日の朝に岐阜に入ったと知って
後:家康が清洲を発ったと九月十二日の夕方に知り、岐阜に入ったと十四日の朝に知って
分析II-1 去就を明かさなかったのは、迷いか、意図か 助詞を修正した(意味の変更なし)。
- 前:秀秋が東軍につくことを西軍の側と公に明らかにしたのは、決戦の当日である。
後:秀秋が東軍につくことを西軍の側に公に明らかにしたのは、決戦の当日である。 - 前:したがって争点は、秀秋が西軍の側と公に去就を明かさなかった理由である。
後:したがって争点は、秀秋が西軍の側に公に去就を明かさなかった理由である。
分析II-4 松尾山の占拠は、西軍の移動に影響したか 謀反の風聞と、東軍が大垣を攻めずに西へ向かうという報は、書き手の異なる別々の覚書に記されている。一人の家臣による一つの覚書と読める記述を改めた。あわせて、問いを述べる文の乱れを修正した。
- 前:同じ島津家臣の覚書の中に、謀反の風聞と、東軍が大垣を攻めずに西へ向かうという報の両方が現れ、二つは互いに排除し合わない。
後:同じ島津家臣たちの覚書の中に、謀反の風聞と、東軍が大垣を攻めずに西へ向かうという報の両方が現れ、二つは互いに排除し合わない。 - 前:これは、秀秋が何を考えたかではなく、秀秋の行動が戦場の形成に何を引き起こしたかという因果の問いである。
後:この節で問うのは、秀秋が何を考えたかではなく、秀秋の行動が戦場の形成に何を引き起こしたかという因果である。
資料編
資料A-5 交戦相手と戦後の処遇 表に掲載していない軍勢の一覧から、寺沢広高を削除した。寺沢は、同じ表の小西行長の行に交戦相手として掲載されている。
- 前:『日本戦史 関原役』が石田勢や小西勢を攻めたとして挙げる軍勢のうち、加藤嘉明・金森長近・生駒一正・寺沢広高は表に入れていない。
後:『日本戦史 関原役』が石田勢を攻めたとして挙げる軍勢のうち、加藤嘉明・金森長近・生駒一正は表に入れていない。
資料A-6 兵力・石高の数字と集計 秀秋に筑前・筑後を与えた充行状に石高の記載がないことについての記述を、根拠とした研究から言える範囲に改めた。同じ日付の別の充行状に石高の記載があることから言えるのは、研究の表の空欄が記載漏れではないということまでである。あわせて、語の重複を除いた。
- 前:同じ日に同じ五人が出した別の充行状には石高が書かれているので、書き落としではない。
後:同じ日に同じ五人が出した別の充行状には石高が書かれているので、堀越の表6 の書き落としではない。 - 前:麓の四家の兵力は、四家の兵力を合計して4,300と試算される値である。
後:麓の四家の兵力は、各家の兵力を合計して4,300と試算される値である。
資料A-8 九月十二日から十五日の道のりと距離 合戦の前、三成は佐和山ではなく大垣にいた。この段で比較しているのは本拠地からの距離であるため、その旨を明記した。
- 前:関ヶ原から直線でおよそ二十キロの佐和山にいた三成が5,820で、
後:関ヶ原から直線でおよそ二十キロの佐和山を本拠とする三成が5,820で、
資料B-7 筑前の領国経営 「入封」が、直前の文の文禄四年を指すように読めた。挙げている知行宛行状は、越前から筑前へ戻った慶長四年のものである。また、博多の入海の埋め立てを誰の事業とするかは確認できていないため、受け身の表現に改めた。
- 前:家臣への知行給付は入封の直後から始まっている。
後:家臣への知行給付は筑前へ復した直後から始まっている。 - 前:慶長五年には博多の入海を埋め立てたとする記録がある。
後:慶長五年には博多の入海が埋め立てられたとする記録がある。
資料B-8 備前・美作への転封と早世、資料B-9 領国経営の確度 岡山の寺社へ禁制と寄進状を出した年を慶長六年に限定していたが、根拠とした史料には慶長七年二月のものもあるため、慶長六年から七年にかけてと改めた。
- 前:寺社には慶長六年に禁制と寄進状を出して寺社領を改めて定めており、
後:寺社には慶長六年から七年にかけて禁制と寄進状を出して寺社領を改めて定めており、 - 前(資料B-9 の表):慶長六年の寄進状・禁制(備前一宮・西大寺ほか)
後(資料B-9 の表):慶長六〜七年の寄進状・禁制(備前一宮・西大寺ほか)
資料C-1 史料の扱い方 九月十七日付の連署状写の差出人である二人(石川康通・彦坂元正)について、「佐和山方面にいて、戦況を後方へ伝える立場だった」と記していたが、その根拠を確認できなかったため、この一文を削除した。
- 前:両名は佐和山方面にいて、戦況を後方へ伝える立場だった。
後:(削除)
資料C-5 大垣から関ヶ原への移動 十五日の戦いの時刻については、同時代の文書(九月十七日付の連署状写の「巳の刻」)がある。すべてが後年の覚書と推定に拠るとは言えないため、その程度を明記した。
- 前:十五日の布陣と戦いの時刻は、後年の覚書と研究者の推定に拠り、説が分かれる。
後:十五日の布陣と戦いの時刻は、後年の覚書と研究者の推定に拠るところが大きく、説が分かれる。
資料C-8 本作独自の推論と、分析のために置く仮定 三か所を修正した。
第一に、九月十四日に大垣の西軍へ伝わったのは、小早川が家康方についたという報せである(島津家臣の覚書)。「進出の報せ」としていた記述を訂正した。
- 前:同日に小早川の進出の報せが西軍へ伝わったこと
後:同日に小早川が家康方へついたという報せが西軍へ伝わったこと
第二に、申し合わせを前提にしない場合、松尾山へ入ったことは東軍の側で行動するという意思表示にとどまり、戦いの約束までは含まない。分析I-4・I-5 と字句を統一した。
- 前:これは(四)を採った本編の描き方で、(三)までなら、東軍の側で戦う意思を行動で示す意思表示になる。
後:これは(四)を採った本編の描き方で、(三)までなら、東軍の側で行動するという意思表示になる。
第三に、「分析のために置く仮定」を定める文の乱れを修正した(意味の変更なし。同じ字句が二か所にある)。
- 前:史料ではいくつかの選択肢のどれとも決められない論点で、本作が物語と分析のために一つを採った前提。
後:史料ではいくつかの選択肢のどれとも決められない論点について、本作が物語と分析のために一つを採った前提。
資料C-9 本文上の完全な創作 文の乱れを修正した(意味の変更なし)。
- 前:十五日の未明に、小早川側が四家それぞれへ別々に使者を送り、小早川勢は大谷方面へ進軍すること、それぞれの家で決めるよう伝え、どの家が何と答えたかは互いに知らせなかったこと。
後:十五日の未明に、小早川側が四家それぞれへ別々に使者を送り、小早川勢は大谷方面へ進軍すると告げ、どちらにつくかはそれぞれの家で決めるよう伝え、どの家が何と答えたかは互いに知らせなかったこと。
地図
地図3 関ヶ原の布陣(紙の本・電子版) v1.0.1 で札を隊の面に重ねないように配置した際、札が自分の隊の面まで避けたため、宇喜多秀家の札が陣から離れて松尾山の近くに置かれ、朽木元綱の札が小早川秀秋の札の下に隠れるなど、札の配置に乱れが生じていた。札を自分の隊の近くに置き、札どうしが重ならないように修正した。
電子版の地図 v1.0.1 で紙の本に適用した地図の修正(陣の札を地名の上に描く、布陣図の札を読みやすくする、陣からの眺めの図の「(尾根の陰)」の添え書きを廃して地名を松尾山・南宮山・笹尾山に絞る)を、このバージョンで電子版にも適用した。
v1.0.1 — 2026-10-05
紙の本(ペーパーバック)の刊行に合わせたバージョンで、紙の本にのみ適用した(電子版は v1.0.0 のまま)。本文の変更はない。
- 地図の視認性を改善した。陣の札(四角い囲み)を地名の上に描き、布陣図の札が隊の線や面に重ならないようにした。陣からの眺めの図では、「(尾根の陰)」の添え書きを廃し、地名を松尾山・南宮山・笹尾山に絞った。
- 奥付に紙の本の ISBN を記載した(紙の本のみ)。
v1.0.0 — 2026-10-02
初版を発売した。